日本列島に住む人々は、縄文時代あるいはそれ以前から何かしら共通の言語を話し続け、現代に及んでいる。これは世界史の中でも稀なことだが、現代の日本人がどこかに縄文的な心性や思考法を受け継いできたのは、太古からの言語の継続性によるところも大きいのであろう。
縄文時代は、中期にすでにひとつの言語的なまとまりが成立していたと言われる。その後、今から二千数百年前に、本格的な稲作技術をもった渡来人が大陸から日本列島に渡ってきた。その渡来人の人口は、縄文人のおよそ2倍から3倍と言われる。しかし、大陸と海峡で隔てられていたためもあり、一度に大量に渡来したのではなく、およそ千年の間に徐々に渡ってきたものと思われる。渡来人が縄文人の文化を圧殺したり駆逐したというよりは、むしろ縄文文化に溶け込み、同化する面が多分にあったようだ。小集団ごとに渡来した人々は、長い年月の間に言語的にも縄文人と同化していったであろう。だからこそ、縄文語が基盤となって日本語が形成されていった。(《関連記事》日本文化のユニークさ03)
日本語の歴史的な継続性について少し具体的に見てみよう。まず梅原猛の『日本人の「あの世」観 (中公文庫)』より。アイヌは、近年まで縄文人と同じように狩猟採集をこととしており、東北地方に住み縄文文化の跡を濃厚にとどめていた蝦夷とも深いつながりがあると思われる。それゆえアイヌの言葉を調べることが縄文語の研究のヒントとなるのではないかと梅原はいう。実際に生命や霊を表すアイヌの言葉の六つが、日本語との何らかの関係を示すという。以下アイヌ語‐日本語の順で対応関係を示そう。カムイ‐カミ、ピト‐ヒト、イノッ‐イノチ、タマ‐タマである。アイヌ語のラマトやクㇽも日本語とのある対応関係があるが、説明がやや複雑になるので省略する。
このようなアイヌ民族の魂ともいうべき、生命や霊に関することばが日本語から取り入れられたとは考えにくく、むしろアイヌと現代日本人の共通の祖先である縄文人の言葉が、少しずつ変化しながらそれぞれに受け継がれてきたと考えるべきだと梅原は主張する。
時代は下るが、もう一つ具体例を示そう。金谷武洋は『日本語は亡びない (ちくま新書)』で次のような研究を紹介している。753年から1331年にかけて書かれた日本の14の古典文学作品には「延べ総数」で40万語が使われていた。そのうち使用頻度の多い上位10語(つまり基本語彙)は順に以下のものであった。
ある、こと、ひと、する、いと、ない、こころ、おもう、みる、もの
このトップテンのうち、唯一「いと」を除いて、他はすべて現代日本語でも基本語彙の上位を占めており、しかもそれらが漢字流入以前の和語であることは、日本語の継続性の一面を示すといえよう。
金谷はまた、日本語を観察すると日本人がいかに「対話の場」を大切にする民俗であるかに驚くという。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいるという「対話の場」。その場に、「我」と「汝」が一体となって溶け込んでいる。この点に日本文化の基本があるのではないか。日本語の「我」は、けっして「対話の場」から我が身を引き離して上空から「我」と「汝」の両者を見下すような視点を持たない。「我」の視点は常に「いま・ここ」、つまり対話の成り立つ関係性の場にあるというのだ。
これに対して、西洋の考え方は自己を世界から切り取るところに特徴があるようだ。西洋の「我」は、「汝」と切れて向き合うが、日本の「我」な「汝」と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすといえよう。それは、古来からの日本語そのものがそのような発想法をもっているからではないのか。
小笠原泰の『なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)』では、上の事情をもう少し日本語の構造に即して分析している。
欧米人は、個人を自律的なものとみなし、主体的な自我が絶対視される。太陽のように自分を中心にすえる自我モデルでは、IとYouは、相互に排他的で独立的である。社会の役割意識はあるものの、それに完全に同一化することはなく、つねに絶対的自我が優越する。これに対して日本人の自己構造は、相手との関係で変化する相対的なものであり、欧米人のような自分を中心に据えた絶対的なものではない。
これを言語の構造に即して説明すると、欧米言語は名詞中心に独立的、客観的な対象(モノ)として世界を認識する。主観を排除して時間的な推移のよう変化の観念をできるだけ含めない傾向がある。逆に主観は、名詞的に客観的に把握される世界から超然と独立している。
これに対し日本語は、述語(動詞)中心にしており、対象を主観と分離せずに経験する。自我よりも複数の人々の関係によって生じる「場」が優先され、自我よりも「場」が根源的な自発性をもつ。日本語の一人称の多様性(私、俺、僕、お父さん‥‥)や述語の複雑性(敬語等による変化)が示すように、他者との相対的な関係が重要なのであり、それに対応して日本人の自己構造も相対的である。「場」の変化の中で、自我のあり方も出来事(コト)のとらえ方も絶えず変化する。主観は世界を、時間の経過のなかで変化する出来事(コト)として経験し、主観的に身体的に世界に反応する。上で紹介した古典文学の中で使用頻度の高い語彙の2位に「こと」が来るのも偶然ではないだろう。(《関連記事》『なんとなく、日本人』)
上のような欧米人と日本人の世界認識に違いは、最近、文化心理学で実験的に明らかにされつつあるようなので、そのうち紹介したい。(『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 (講談社プラスアルファ新書)』)(今回は、かなりかたい話になってしまったが、この本は具体的な面白い事例が載っていて興味深いですよ。)
《関連記事》
『日本にノーベル賞が来る理由』
今回の話に直接は、関係ないのだが、日本人が英語に弱いこととノーベル賞がとれることとの間には関係があるという話。日本語中心でノーベル賞級の研究ができるという事実、だから日本人が英語に弱いという事実に誇りをもつべきなのだ。
《関連書籍》
大野晋他『日本・日本語・日本人 (新潮選書)』
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今回取り上げるのは『ケルトと日本 (角川選書)』の中の「現代のアニミズム−今、なぜケルトか」(上野景文)という論文である。
万葉から近現代まで、そして文学(志賀直哉、大江健三郎、中上健次など)、映画、絵画、音楽にいたるまで、日本文化のアニミズム的特質について、多くの専門家が語っている。しかし上野は、そうした芸術領域よりも、もっと日常的な場面でアニミズム的なものが観られるかどうかをチェックすることが大切だと考える。
そこで上野は、日本人や日本社会の思考、行動様式を以下の七点の特質にまとめる。
イ)自分の周囲との一体性の志向
ロ)理念、理論より実態を重視する姿勢
ハ)総論より各論に目が向いてしまう姿勢
ニ)「自然体的アプローチ」を重視する姿勢
ホ)理論で割り切れぬ「あいまいな(アンビギュアス)領域」の重視
ヘ)相対主義的アプローチへの志向(絶対主義的アプローチを好まず)
ト)モノにこだわり続ける姿勢
これらの特質は偶然に並存しているのではなく、それぞれの根っこに共通の土台として「アニミズムの残滓」た見て取れると、論者はいう。たとえば、ロ)やハ)についてはこうだ。自然の個々の事物に「カミ」ないし「生命」を感じた心性が、今日にまで引き継がれ、社会的行動のレベルで事柄や慣行のひとつひとつにきだわり、それらを「理念」や「論理」で切り捨てることが苦手である。それが実態や各論に向いてしまう姿勢につながる。
だた私は、これらずべてをアニミズムを根拠にして語るよりも、このブログで繰り返し示してきたような、四項目の「日本文化のユニークさ」から総合的に考えた方が無理がないと思う。異民族との激しい闘争がなかったから、宗教やイデオロギーによる絶対主義的思考で対抗する必要がなかった、というような観点も含めて考えた方が、より現実的だろう。
ともあれ、日本社会においては「西洋文明」と「土着文化」は同居し、むしろ土着文化の法が前者を大幅に薄めているのではないか。つまり、アニミズム的、縄文的心性の方が、現代日本文化のメジャープレイヤーなのではないか、と論者は主張する。
どちらがメジャープレイヤーかは、現代日本の文化のどこに基準をおいて見るかによって答えが違ってくるであろう。すくなくとも、制度や表層で自覚される価値観の深層で、自覚されにくい縄文的な心性が、かなり生き生きと活動しているのは確かだろう。その辺をはっきりと自覚することが、今後ますます重要になると思われる。
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宮崎駿の『となりのトトロ』の背景に1972年のスペイン映画『ミツバチのささやき [DVD]』があったという。エリセのこの作品には、キリスト教に抑圧される以前の自然崇拝の古い世界観がもり込まれている。『となりのトトロ』は、この映画から影響を受け、似たようなシーンが見られるし、同様の世界観を表現している。ヨーロッパならローマ帝国以前のケルト人の森の文化、日本なら縄文時代やそれ以前の文化への敬愛が二つの映画の底流をなしているという。
宮崎アニメは、充分に意図的に、縄文・ケルト的な森の思想を表現している。産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への敬愛。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人への共感。今回は、縄文文化と比較されるケルト文化に触れながら、日本文化のユニークさを考えてみたい。
世界中の産業文明の国々は、ヨーロッパがケルト文化をほとんど忘れ去ってしまったと同じように、「前農耕的な」時代の文化の精神的な遺産をほとんど残していない。(ケルト人は、牧畜・農耕を営んでいたが、都市は発達せず、森との共生の中に生きていた。)日本の縄文文化は、一部農耕を取り入れながらも、狩猟・漁労・採集中心の豊かな文化で、それが約1万5千年も続いた。しかもその精神的な遺産が、強力な統一国家やそれに伴う、強力な宗教などによって圧殺されずに、現代にまで日本人の精神の中に生き生きと生き続けている。そこに「日本文化のユニークさ」の基盤がある。世界がほとんど忘れ去ってしまった、文明の古層が、現代の日本人および日本文化の中に息づいているのだ。
以下、河合隼雄の『ケルト巡り』を取り上げて、考えてみたい。
◆『ケルト巡り』(河合隼雄)
かつてケルト文化は、ヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に広がっていた。しかしキリスト教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。
この本は河合隼雄が、そのアイルランドにケルト文化の遺産を探して歩いた旅の報告がベースになっている。なぜ今、日本人にとってケルト文化なのか。それはケルト文化が、私たちの深層に横たわる縄文的心性と深く響き合うものがあるからだ。
私たちは、知らず知らずのうちにキリスト教が生み出した、西洋近代の文化を規範にして思考しているが、他面ではそういう規範や思考法では割り切れない日本的なものを基盤にして思考し、生活を営んでいる。一方、ヨーロッパの人々も、日本人よりははるかに自覚しにくいかもしれないが、その深層にケルト的なものをもっているはずだ。
ケルトでは、渦巻き状の文様がよく用いられるが、これはアナザーワールドへの入り口を意味する。そして渦巻きが、古代において大いなる母の子宮の象徴であったことは、ほぼ世界に共通する事実なのだ。それは、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。また生まれ死に、さらに生まれ死ぬという輪廻の渦でもある。アイルランドに母性を象徴する渦巻き文様が多く見られることは、ケルト文化が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではない。父性原理の宗教であるキリスト教が拡大する以前のヨーロッパには、母性原理の森の文明が広範囲に息づいていたのだ。
日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。アイルランドに残る昔話は、西洋の昔話は違うパターンのものが多く、むしろ日本の昔話との共通性が多いのに驚く。浦島太郎に類似するオシンの昔話などがそれだ。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。それはかなり不思議なことでもあり、また重要な意味をもつかも知れない。ケルト文化と日本の古代文化を比較することは、多くの新しい発見をもたらすだろう。
いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている。これは河合が言っていることではないが、日本のマンガ・アニメがこれだけ人気になるひとつの背景には、彼らがほとんど忘れかけてしまったキリスト教以前の森の文化を、どこかで思い出させる要素が隠されているからかも知れない。
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町田宗鳳の『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)』は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教が、歴史上どれほどの愚行を繰り返してきたかを多くの具体的な事実によって徹底的に暴く。そして、縄文文化もそうであったような「多神教的コスモロジー」の復活に、一神教文明行きづまりを打破する重要な意味があるかも知れないと主張する。
たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。
ところで近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することなのだ。日本が、国際政治のパワーポリティクスの場で生彩を欠くのは、一神教的な政治原理による駆け引きが苦手だからかもしれない。
ともあれ日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。ハンチントンは日本の独自性の中味までは指摘しなかったが、それは一神教的なコスモロジーに染まらない何かを強烈に残しているということであろう。他のアジア地域では、アニミズムそのものが消えていったが、日本ではソフトな形に変化しながら、信仰とも非信仰ともいいがたい形をとりつつ、近世から現代へ、一般人の間から文化の中央部にいたるまでそれが残っていったのでる。
日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。日本人の心に根付く「ソフトアニミズム」は、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。
アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)
もし、アニミズムや多神教的コスモロジーという言葉を使うことに抵抗があるなら、「宗教の縛りが少なく、多様化をよしとする価値観と文化」(伊藤洋一『日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)』)と言い換えてもよい。
世界がクールジャパンに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的コスモロジーとは違う何かが息づいていることを感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。
世界がなぜ日本のポップカルチャーに魅了されるのかを「文明史的な視点」からとらえなおし、日本人がもっと自信をもって自己を評価すること。そして自信をもって自分たちの文化を世界に発信すること。そのためにもクールジャパン現象を追い続ける意味があるとあらためて思う。(
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《日本神話を読む》
現代人は「科学の知」に圧倒されて「神話の知」の獲得が難しい。現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。結局は各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていくほかなく、解決は個人にまかされるのか。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのであろう。
生きることそのものが神話の探求であり、各人が自分にふさわしい個人神話を見出すことが生きることにつながると言うべきだろう。日本人としては、かつて人類がもった数々の神話、そしてとくに日本の神話を学ぶことは不可欠だろう。
日本の神話は、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)によって現在に伝えられている。この時代に神話が記録されたのは、当時の日本が、外国との接触によって統一国家としての存在を示すとともに、その中心としての天皇家の存在を基礎づける必要に迫られていたからだ。
『神話と日本人の心』の著者の河合隼雄は、日本神話を深層心理学の立場から研究する。つまり、人間にとって神話がいかに必要であり、それが人間の心に極めて深くかかわているか、という観点から、神話のなかに心の深層のあり方を探る。そこに日本人の心のあり方を探り、我々の生き方のヒントを得ようという立場だ。ユング派の分析家として日本人の心の深層にかかわる仕事を続けてきた経験から、日本神話の世界にひたりきることによって得たことを述べるというのである。このブログでは、この河合隼雄の著書を参考にしながら『古事記』を読んでいきたい。
前回、アマテラスの話から始まっているので、ここでは上の本の第四章から見ていくつもりである。
第四章「三貴子の誕生」
《父からの出産》
日本神話のなかで三貴子と呼ばれる、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲは極めて重要なトライアッドである。その誕生について『古事記』に従って見よう。
イザナキは黄泉の国より逃げ帰り、きたない国に行ってきたので、みそぎをする。このとき、冥界の汚垢(けがれ)によっても神が生まれ、それを「直す」ための神も生まれる。これらの「神」はキリスト教のゴッドとは大いに異なる。これらひとつひとつにヌミノースな感情(超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものに触れることで沸き起こる感情)が湧き、それを神と名付けたのだろう。
続いて、イザナキが左目を洗うとアマテラスが生まれ、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノヲが生まれる。そしてアマテラスには「汝命は、高天の原を知らせ」、ツクヨミには「汝命は、「夜の食国を知らせ」、スサノヲには「汝命は、海原を知らせ」と命じた。
ここで最も貴いとされる三柱の神があえて父から生まれたと語るのはなぜか。
人間がすべて女性から生まれる、その神秘に感動した人々は、まず神として大母神(だいぼしん)を想定したと思われる。ヨーロッパでもキリスト教以前は地母神(ちぼしん)が中心であった。日本の縄文時代の土偶にも地母神は多い。これに対し、父性原理の優位を押し出すユダヤ・キリスト教は、アダムの骨からイヴがつくられる。
日本の神話ではこれに対して、大母神イザナミがつぎつぎと国土も含めて、ほとんどすべてを生み出す。圧倒的な母性優位である。ここで極端な母性の優位性を、父性の強調によってバランスさせる。こうした巧妙なバランスが日本神話の特徴である。
イザナキが三貴子を生んだことで父性の巻き返しがあったが、彼の後継者として高天の原を知らしたのはアマテラスであった。しかしこれで女性優位がすんなり確立するわけではない。
《目と日月》
アマテラスとツクヨミ、つまり日と月はそれぞれ父親の左目、右目から生まれている。日と月が神の目だという主題は世界の神話のなかにかなり広く見られる。しかし、右と太陽、左と月が結びつくのが一般的で、日本神話や中国の盤古の例のように左と太陽、右と月が結びつくのは珍しいようだ。人類は右利きが圧倒的に多いので、一般には右が左に対して優位と考えられる。
西洋の伝統的な象徴性の考え方では、右―太陽―光―男―意識というつながりに対して、
左―月―闇―女―無意識というつながりが対立していて、前者が優位性をもつようだ。
日本の神話では、左―太陽―女という結びつきが見られ、西洋の一般的な象徴パターンとは異なる。強調すべきは、太陽―女性の結びつきという日本の特異性である。(注)
(注)上田篤氏(『縄文人に学ぶ (新潮新書)』)は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。
妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子ども が誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。
子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。
縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。
父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。
こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。
日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。
日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。
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]]>◆『神話と日本人の心』河合隼雄、岩波書店
ユング派の心理療法家として著名だった河合隼雄のこの本については母性原理と男性原理のバランス:神話と日本人の心(1)以下5回に渡るシリーズとしてすでに取り上げている。ここで再度取り上げたいと思ったのは、この本に学びながら、もう一度じっくりと『古事記』を読んでみたいと思ったからである。この本の内容を章を追って紹介しながら、著者や他の著者の関連する研究やテーマにも随時触れていくという形になるだろう。前回よりももっと長いシリーズで、しかも間隔をあけながら2年から3年かけて終わる長期戦になると思う。さっそく「序章:日の女神の輝く国」から始めたい。
《日の女神の誕生》
数多い日本の神々のなかでアマテラスは、際立った地位を占める。古代日本人が、天空に輝く日輪に女性をイメージしたのは、世界の神話のなかでもかなり特異だ。アメリカ先住民の神話を除いて、ほとんど太陽は男性神である。
イザナギは、死んだ妻を連れ戻そうと黄泉の国を訪れるが果たせず、この世に戻って身のけがれをおとそうとみそぎをし、その際にアマテラスが生まれる。彼女は父から生まれたので、母を知らない女性だ。
男女の区分と太陽と月という区分を考えるとき、男−太陽という結びつきが一般的で、女−太陽とする文化はより女性優位の文化と考えられる。しかし、そう考えるとしても、どうしてわざわざその女性が父から生まれたとするのか。女性が男の骨からつくられたとする旧約聖書と似て、男性優位を物語るともとれる。ちなみにギリシア神話のアテーナーもまた「父の娘」であった。
アマテラスは日本神話のなかで重要な位置を占めるが、その誕生においては「三はしらの貴き子」の一人として生まれ、唯一の貴い神ではない。では中心を占めるのはどの神か。この問題はのちに触れるが、ともあれ日本神話は、世界の神話のなかで特異なところと、他と大いにつながる特性とを備え、一筋縄ではいかない。この問題は、のちに詳しく検討されるだろう。
ここでさっそく、他の研究を参照しなければならないのは、太陽を女性神とするのが本当に日本とアメリカ先住民だけかという点だ。環境考古学者の安田喜憲によると、長江文明の人々は、何よりもまず太陽を崇拝した。そして重要なのは、その太陽が女神だったということだ。それは、日本のアマテラスが女神であることとどこかでつながるのかもしれないという。。漢民族の太陽神は炎帝という男神であったのだ。長江文明の、日本列島への影響について詳しくは、このブログの記事長江文明と日本を参照されたい。これは、日本文化のルーツのひとつとして無視すべきではないだろう。
《神話の意味》
続いて河合隼雄は、神話の意味について語る。ある部族が部族としてまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要だ。その部族がどのように形成され、今後どこに向かっていくのかを物語る「神話」によって、部族の成員は自分たちのよって立つ基盤を得、ひとつの集団として存続していくことができる。「神話をなくした民族は命をなくす」と言われる所以だ。
中村雄二郎は、「科学の知」が対象を細分化し、対象への働きかけも部分的なものにするのに対し、「神話の知」の基礎にあるのは、「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」であるという。
「これは先祖様が300年前に植えた木だ」という「物語」は、その物語を共有する一族を「つなぎ」、その木に共通の意味や親しみを与える。木や土地の由来が共有されるとそれが「伝説」になるのだ。伝説が特定の事物や時を離れると「昔話」になる。
神話も人間にとっての物語であるが、ひとつの部族や国家との関連で、伝説や昔話より公的な意味合いをもつ。伝説や昔話が、より素朴な形で人間の深い心のはたらきを示している一方、神話は特定集団の意図が関連している。
《現代人と神話》
現代人は「神話の知」の獲得に大きな困難を感じており、それが現代人の心の問題に深く関係する。「科学の知」がつぎつぎと「神話の知」を破壊し、その喪失に伴う問題が多発するようになった。たとえば援助交際に走る思春期の少女たちの根本問題は「居場所」がないことだという。それは、現代人の「関係性の喪失の病」の一症状ともいえる。「居場所」がない少女たちが、援助交際をきっかけに街の仲間とつき合いを求めていくのだ。
「死」に関する神話も失われ、老いや死は苦痛以外なにものでもなくなる。その苦しみから逃れるには、ボケる以外にないのか。どのような民族もかつて死についての神話をもち、それによって生と死が「つながり」、生者と死者がつながっていた。
一方、自爆テロの犯人は自分の信じる神話によって救われるかも知れないが、犠牲者の苦痛は計り知れない。かつて日本でも、上から押し付けられた神話で多くの人が不幸に陥ったため、神話のもつ負の面を意識しすぎ、戦後は神話を強く否定した。が、それによって困難もかかえるようになった。
では、現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。キャンベルは「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります」と述べ、解決は個人にまかされているという。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。
最後に宣伝めくが、私自身、生と死を巡って自分なりにその意味を探求し続けた。その成果としてまとめたのが『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』である。多くの臨死体験者が、体験後、人生を劇的にプラスの方向に変えてしまうことに注目して、そこに「科学の知」では割り切れない臨死体験の深い意味を探ったのである。私自身にとっての「神話の知」の復活の試みともいえるだろう。
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◆『神話と日本人の心』
今回は、日本神話の特徴で、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係すると思われる8つのポイントのうちで、?に関連するものを見ることにする。
?明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
古事記によれば、スサノオはアマテラスとの誓約に勝ったことを誇るあまり、大いに暴れまわる。その乱行を見たアマテラスは、岩屋に身を隠ししてしまう。その結果、世界は闇に包まれ、永遠に闇が続くかと思われた。多くの災いが起こり、こまった八百万神が対策を練るために集まった。そして、それぞれの神々が、問題解決のために様々なことを行う。
神々がこのように力を尽くしていたとき、もちろんアマテラスは岩屋のなかで何もしていない。スサノオとの対決ののちのスサノオの無茶な実力行使に対して、アマテラスは闇に身を隠すことでまったくの無為の状態にとどまるのである。他文化の多くの神話では、このようなとき主神が手勢を率いて悪に立ち向かい勝利するパターンが多いが、アマテラスは徹底的に受動的で、逆にそれが八百万の神々の活性化を促したとも言える。
しかも神々のめざましい活躍にもかかわらずそこにはリーダーが存在しない。中心になるリーダーなしに神々の相談はうまくまとまり、準備も整って、アメノウズメが登場する。そして例の裸踊りが始まる。日本と同じく多くの神々が活躍するギリシア神話では、主神ゼウスが調整役を務めることが多い。日本神話ではこのような危機的な場面でも明確なリーダー役が存在しない。それでもことがうまく運ばれていくのだ。
著者は、このように強力なリーダーなしにことが運ばれていく特徴は、「中空構造」という一種のバランス構造をもとにしているという。そして、古事記神話においてもっとも重要なのがこの中空構造であるという。
日本神話において重要な三つのトライアドも、やはり中空構造になっている。
1)タカムスヒ――アメノミナカヌシ――カミムスヒ
2)アマテラス(天)――ツクヨミ――スサノオ(地)
3)ホデリ(海)――ホスセリ――ホオリ(山)
第一のトライアドでは、それぞれ父性原理、母性原理を象徴する神を両側に配し、その中心はアメノミナカヌシである。第二のトライアドでは、天を示すアマテラス、地を示すスサノオを両側にして、その中心は無為の神・ツクヨミである。第三のトライアドでも、中心にやはり無為の神・ホスセリがおり、その両側にそれぞれ海と山を代表するホデリとホオリがいる。ちなみに二人はそれぞれ海幸彦と山幸彦とも呼ばれる。
このように日本神話は、相対する両極をもちながら、その中心を無為の存在が占め、全体としてのバランスをとるという「中空均衡構造」を大切にしている。確かにアマテラスは神々の中心のように見えるが、アマテラスとスサノオは互いに相手を相対化し、その中心には無為の神ツクヨミがいると見たほうが妥当だと著者はいう。
この構造は、たとえば『旧約聖書』のようにな、中心に唯一神をもちそれに敵対するサタンは徹底的に神に拒否されるという構造とは大きな違いである。このような日本神話の構造は、日本人の、あるいは日本人の集団のあり方と深く通じるものがあるのではないか。
かつて私はこのブログで、なぜ日本でキリスト教が広まらなかったのかをいくつかの面からまとめたことがある。もしこの「中空均衡構造」が日本人の心の深層に生きているとすれば、一神教的な構造が受け入れにくいのも不思議ではない。
☆キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01
☆最もキリスト教から遠い国:キリスト教が広まらない日本02
それを全面的に受け入れれば日本民族の特性が失われ、日本が日本でなくなると言ってよいほどの要素がキリスト教にあったからこそ、日本人はこの宗教を受け入れなかったのだろう。一神教は、日本文化の根底にある「中空均衡構造」と相容れなかったともいえよう。
最近、権威を嫌う知的な大衆:「日本的想像力」の可能性(3)というエントリーで、社会を営むためには権威や権力は尊重されるべきだと考えている人の割合が、日本人の場合は、世界と比較して極端に少ないというデータを紹介した。もしかしたらこの傾向は、神話の時代からあったのだろうか。
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★ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
★太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
《参考図書》
★中空構造日本の深層 (中公文庫)
★母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
★「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
★続「甘え」の構造
★聖書と「甘え」 (PHP新書)
★日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)
JUGEMテーマ:オススメの本
◆『神話と日本人の心』
この本を読んで興味深かったことは、日本神話の特徴が、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係するということであった。それは、ざっと挙げると以下のようなものである。
?男性原理とのバランスを取りながらの女性原理
?自国内よりも外国に基準を求める態度
?文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている
?人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
?日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる
?何らかの原理によって統一するよりも原理的対立が生じる前にバランスを保とうとする調和の感覚
?明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
?恥の感覚の重視
これまでに2回にわたって?について見てきた。?についてもかんたんに触れたが、少し付け加えたい。前回指摘したのは、男性原理が女性原理に取って代わるのではなく、両原理がバランスをとりながらも女性原理優位の状態を保っていくという連続性であった。河合隼雄自身は、もっと具体的な別の面から?の特徴を指摘している。それは、神々の連鎖という特徴である。
記紀においてイザナキ、イザナミは国造りの主神だが、それ以前に「神世七代」と称される神々の名が連鎖的に告げられる。なぜ国造りの前に多くの神々の名が告げられるのか。その意味は、フォン・フランツの『世界創造の神話』が見事に解き明かしているという。
彼女によれば、ポリネシアやニュージーランドなどで重要な位置を占める神・タンガロアの創造神話は、まさに神々の連鎖だという。この地域の神話の特徴は、神々の連鎖のなかでだんだんと神々の姿が明確になっていき、それが人間へつながっていくことだ。日本の神話も、人間に至るには長い間があるが、やがて人間の世界へとつながる。つまり日本神話は、ポリネシアなどと同様に「原始的な根」をもち、その根との連続性を保っているというのだ。日本は、現代において「先進国」と呼ばれる国々の一つだが、その中で唯一、古代から現代に至る不思議な連続性を保っている国なのである。他の先進国はすべてキリスト教文化圏に属し、強烈な唯一神を中心とする父性原理的な宗教の力によって、「原始的な根」からほとんど切り離されてしまったのである。
このブログで探求している日本文化のユニークさ8項目のうち、一番目と二番目は次のようなものであった。
(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。
これまで見てきたところからも明らかなように、これらの特徴は、日本の神話、とくに古事記の中にはっきりと読み取れるのである。そして(1)と(2)は、相互に深く結びついている。
先進国の中で日本が唯一、文明の「原始的な根」から切り離されていないということについて、現代の日本人はほとんど自覚すらもっていないかもしれない。いや、近年日本人は日本の伝統の大切さに少しずつ気づき始めたかに見える。しかし、日本人が「原始の根」から切り離されていないことの意味は、私たちが考えるよるもはるかに重要なのかもしれない。
日本文化に出会うことで、忘れられていたヨーロッパ文化の古層を思い出していった人物の一例をあげておこう。トマス・インモースは、スイス出身だが日本に在住するカトリック司祭であり、日本ユングクラブ名誉会長でもある。彼はその著『深い泉の国「日本」―異文化との出会い (中公文庫)』で、「神道とヨーロッパの先史時代とは共通のものを分かち合っている」という。スイスは、ケルト文明のひとつの中心地であった。それで、縄文的な心性が現代に残る日本という土地で、少しずつスイスの過去に出会うようになった。日本という「深い泉」に触れることで、自分自身のルーツのより深い意味を見出していったというのだ。「日本という土地の上で、私は少しずつ、スイスの過去に出会うようになった。バラバラだったものがひとつにまとまり、私は自分自身の過去も知るようになった。自分を理解するようになった。」
私たちは、日本文化の最も重要なこのような特徴を失ってはならない。そのためにはまず、この特徴をしっかりと自覚することが大切なのである。
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日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
《関連図書》
☆文明の環境史観 (中公叢書)
☆対論 文明の原理を問う
☆一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
☆環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
☆環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
☆蛇と十字架
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